※この記事は、アタラフェロー / 電通総研カウンセル兼フェロー/ 電通デジタル客員エグゼクティブコンサルタント 有園雄一さんからご寄稿いただきました。
目次
フェイクにだって正義がある。幸せならいいでしょ
イスタンブールで休暇を楽しむつもりだったのに、急な仕事の依頼でロンドン行きの夜行列車に慌てて飛び乗った。彼は、その列車で殺人事件に遭遇する。
列車に飛び乗ったのは、あの名探偵エルキュール・ポアロだ。
アガサ・クリスティ原作の映画「オリエント急行殺人事件」。このストーリーが痛快なのは、乗客全員の「フェイク(偽の証言)」を暴き、ポアロが真相を突き止めるからだろう。といっても、名探偵の鋭い推理は勧善懲悪では終わらない。暴かれた「真実」を前にして、人として、あるいは倫理的に、「何が正義なのか?」と余韻を残す。「真実か正義か」という二律背反に煩悶することになる。
つまり、「真実」が「正義」だとは限らない。一方で、「正義」がいつも「真実」とも言えない。
「フェイクだったとしても、騙されていたとしても、それが正義だったら、それで幸せなら、いいんじゃないの?」 アガサ・クリスティがそう言って、私に微笑んでいる気がした。
America First, Great!
「私はトランプ大統領を支持する」。昨年、ニューヨークに出張してジョン・F・ケネディ国際空港からマンハッタンまでタクシーに乗った。そのタクシーの運転手はパキスタンからの移民だった。彼は「America First, Great!」と言って憚らなかった。
パキスタンでは仕事をしても賃金が支払われないことがある。彼も1年以上未払いが続いた。そんなとき、クジに当選してアメリカのグリーンカードを得た。 「アメリカは素晴らしい国だ。努力して働いたらお金がもらえる。そのお金で何をしても自由だ。しかも、入国の準備のために、英語のレッスンも政府が提供してくれるんだ! パキスタンでは、まともな教育は受けられなかった。いまでは、家族も全員呼び寄せた。親戚に送金もしている」 。
そして、トランプ大統領は我々に仕事と夢を与えてくれる。だから「I like him. He is great! 」と彼は嬉しそうに話してくれた。
フェイクニュースの影響でトランプ大統領が誕生したのかもしれない、という話も彼は知っていた。でも、それは関係ないと彼は言った。「みんなが投票して選んだのだから、それが民主主義でしょ。そして、トランプは正しい」。
フェイクが正義を実現した?
パキスタンからのタクシードライバーが、こんなに幸せになってしまう国。アメリカの強さを垣間見た気がした。そして何よりも、彼にとっては「トランプが正義なのだ」と見せつけられた。
フェイクニュースのお陰でトランプが大統領になったのだとすれば、その「フェイク」がこの運転手と家族を幸せにして、彼らの「正義」を実現したといえる。
ターゲットが見たいものは何か?
「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」。
カエサル(古代共和制ローマ末期の軍人・政治家)の有名な言葉だ。
トランプを支持するかは別として、ここにはマーケティング的に大きな示唆がある。トランプは、自分がターゲットとする選挙民が見たいものを理解していたのだろう。少なくとも選挙キャンペーン中の彼の発言は、巧みに、意図的に、アメリカの保守層に見たいものを見せていた。
ターゲットが見たいものは何か? 「フェイクと真実と正義」の三角形の中で巧みに見たいものを見せるのが、プロのクリエイターでありマーケターだろう。先のアガサ・クリスティの例にあるように、「フェイク」を暴いて「真実」を明るみにしたとしても、それがターゲットにとっての「正義」だとは限らない。
ブランドプロミスを確かなものにするには?
「論語」(岩波文庫)の有名な警句のひとつに次のようなものがある。
「有子が曰わく、信、義に近づけば、言復むべし。」
ここでの「信」とは、約束を守ること。信は正義に近ければ、言葉どおり履行できる。つまり、「信はうそをつかず約束を守る徳。それが確かなものとして完成するには正義に結びつかねばならない」(前述の「論語」から引用)という意味。
「論語」の教えに従えば、ブランドプロミス(約束)とターゲットの「正義」が結びついたとき、確かなものとして完成する。生活者が幸せになるのが「正義」だとすれば、生活者が求めるもの、見たいものを見せてうそをつかずに約束を守ることができれば、ブランドは確かなものになる。
それぞれの生活者が見たいもの=「正義」
報道系メディアなどでは、故意に捏造した情報を載せてはいけないだろう。なぜならそれは、生活者が報道系メディアに対して求めるもの、あるいは見たいものではないからだ。見たいものではないならば、生活者を幸せにする「正義」にはならない。
しかし、ドキュメンタリーなどは別として、そもそも虚構(フェイク、あるいは、フィクション)である映画やドラマ、CMなどは、偽りの世界を精緻に構築し、「真実」を悟らせたり「正義」を訴えたりすることで、人々の琴線に触れる。つまり、「フェイク」が人の心を動かすのだ。
報道系のメディアであろうと、虚構が前提の映画やCMであろうと、生活者が「自分の見たいものしか見ようとしない」ことを理解し、ターゲットの見たいものを見せることができれば、それぞれの「正義」に結びつき、信頼を勝ち取ることができるのではないか。
完全なる「フェイク」、あるいは虚構であったとしても、生活者が見たいものを見せることができれば、問題ないということだ。
寅さんは、生活者の見たいものを見せようとしていた
「フェイク」が「正義」になることもあれば、ならないこともある。それと同様に「真実」が「正義」になることもあれば、ならないこともある。「フェイク」も「真実」も「正義」もすべてが社会的な存在であり、それ故にすべてが相対的だといえる。
ところで、松竹映画『男はつらいよ』シリーズ(山田洋次原作・脚本・監督)で渥美清氏が演じる、寅さん。寅さんには数々の名ゼリフがあった。その中で「さすがだなぁ」と私が思っているセリフの一つを紹介したい。
「俺はな、学問つうもんがないから
上手い事はいえねえけれども
博がいつか俺にこう言ってくれたぞ
自分を醜いと知った人間は
決してもう、醜くねえって・・・」
寅さんは、言わずと知れた国民的大スターだった。山田洋次監督は「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」ということをよく分かっていたのではないか、と思う。
人は皆、どこかしら欠点があるものだ。側から見ると完璧に見える人間でも、本人は鼻の形が気に入らないとか、髪質が嫌だとか、あるいは性悪だとか、誰しもが何かしら醜いと感じる点を持っている。自分に欠点は全くないと思っている人間は、ほぼ皆無だろう。
「自分を醜いと知った人間は決してもう、醜くねえって・・・」。この言葉に、すべての人が救われるはずだ。なぜならすべての人が、なんらかの意味で、自分を醜いと知っているからだ。
こういう言葉を発してくれる寅さん。みんな見たいと思うはずだ。人気が出るのも頷ける。寅さんは、見たいものを見せてくれるスターだった。